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フィールドワーク

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フィールドワーク

集合・・・・ 午前9時  高山地区「つぼ八」駐車場
参加希望・・・090-2795-3423 白河学研究会 鈴木


平成22年12月26日
南湖神社、本沼の古墳群 南湖 本沼

平成22年11月28日
汗かき地蔵、白山姫神社磨崖仏 中島

平成22年10月31日
雲巌寺、黒羽城址 黒羽

平成22年09月26日
甲子峠までの旧道 西郷

平成22年08月29日
天狗山登山、ビャッコイ 表郷

平成22年07月25日
中野古墳群、岩戸別神社 石川 古殿




  • 第10回 白河学修学遠足
    日時 平成22年3月28日(日)
    明治8年、白河地方の道路計画の痕跡
    (几号水準点を見つける)


  • 第7回 白河学修学遠足
    日時 平成21年12月13日
    搦目、白川城址、感忠銘碑、うたたねの森、鹿島神社甕森
    富士見山一等三角点

  • 第6回 白河学修学遠足
    日 時   平成21年11月29日(日)
    テーマ   都々古和気の神の杜を歩く
    目的地   棚倉町 馬場社、八槻社
          石川町 石都々古別、和泉式部堂
          玉川村 都々古別

  • 第5回 白河学修学遠足
    日 時   平成21年10月25日(日)
    テーマ   表郷、旗宿の古代、中世を歩く
    目的地   伊波止和気神社(関辺)、硯石磨崖三十三観音(番沢)、原点笠塔婆(旗宿)、白河神社(旗宿)、住吉神社、玉津島神社、その他

  • 第4回 白河学修学遠足
    日 時   平成21年9月27日(日)
    テーマ   中世県南と常陸国境
    目的地   羽黒山館跡

  • 第3回 白河学修学遠足
    日 時   平成21年8月30日(日)
    テーマ   国造と比売神の白河
    目的地   白川国造神社

  • 第2回 白河学修学遠足
    日 時   平成21年7月26日(日)
    テーマ   白河地方の神々の山と国見の風景
    目的地   建鉾山(表郷) 新地山(借宿) 烏峠(泉崎)
    アクロバットリーダーのダウンロード
    第2回白河学修学遠足を見るにはAcrobatReaderのインストールが必要です。

  •  第1回 白河学修学遠足
     会津中街道三斗斗小屋宿跡巡り 平成21年6月27日(土)
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     温暖化が実感となって久しい今年の梅雨はカラ梅雨気味で急な悪天侯はゲリラと名づけられた豪雨をもたらす様になった。しかし本日は晴れすぎて、暑くなるのが朝から分かる。8時の集合に吉川君、我妻君、山口さん、熊田さんと私で三斗小屋宿跡探訪に出た。
    古代より会津は石背の国として県南白河地区とは同一に扱われてきたのだが(今日までの選挙区なども何故と思うほど一緒にやってきた。)地理的、気候的に見ても、那須連山をはじめ甲子山、大白森山、ニ岐山、権太倉山、鬼面山、八幡岳、笠ケ森山、高旗山、額取山、川桁山と山並みが続き分断されて、各々の鞍部に厳しい峠を作ってきた。昨年の国道289号甲子トンネルの開通は私達世代にさえ歴史的な大変革であった。
     まず西郷原中地区にある白湯山一の鳥居に行ってみる。複雑な四差路の道脇に五坪程の石組みの雛段に古い鳥居や石碑と六地蔵などが混み合って立っている。白湯山信仰の一の鳥居を名乗りこの地での信仰の篤さを窺い知れる。鳥居は那須の山々に背を向き立てられている。那須の湯元からの登拝を高湯山、三斗小屋からの登拝を白湯山と言うらしいので、ここの石碑には両方の名称があってどちらのコースも利用されたのではないかと思う。
     会津中街道は藩主松平正容時代に西街道が五十里地区で地震による山の崩壊で男鹿川が堰止められ通行不能になったことから急遽開削された山岳コースである。数度の参勤交代にも使用されたがさらに大地震が湖を決壊させ西街道を再開通させるのだ。再び信仰と一般の峠道として栄えてゆく。若松から大川を溯り松川、野際と辿りロ止番所を設け、大峠から下ってくる。宿場開村には会津田島からの移住により六十人以上の住人が住んだという。
     今回は当時のコースからではなく深山湖からの林道を歩き麦飯坂の先から古道を行き宿跡に辿り着くこととして車は湖付近で降りる。実際には車は通行できた林道をもくもくと歩き汗が噴き出してくる。車を置いた林道の始点には十数台の車が既にあって車止めかと思われたのだ。しかし三台の車に追い越されながらも僅かに森を割った空は青く囀り回ってついてくる小鳥たち、脇の谷からは瀬音が、梅雨であることを忘れさす。大沢と苦土川の合流点の橋で小休止。橋から流れに岩魚が一尾泳いでいる。橋にチェーンで通行を遮断してありここにも数台の車が停まっている。暫く森の中の林道を行くと数メートル先を野性の猿が二匹道を横断して行った。緩やかな登りで皆に疲れはない。気温は上がり汗まみれになったころ左側に墓地が現れ、昭和戦後まで今は廃村とはいえ集落の歴史が長く続いたことを物語っている。新しい墓石で整備されていて墓守りが今も通っていると知れるものや墓石や石仏が欠け、倒れ草土に埋もれて行くものがあり時の流れを思わざるをえない。その外れに戊辰戦争戦死者供養塔が現れこの地が激しい戦場となって若松城下陥落の前哨戦地であったことも思い起こさせる。
     道は急に平坦となり森のむこうが開けて明るくなってきた。緑のトンネルを抜けると宿跡は山中にポッカリと空を開いて明るく現れた。数戸ある新しい小屋は出作りや土地管理のものであろう。草深い道脇に水路であった石造りの掘割や家屋の基礎石、敷石、石、鉄の灯籠、石仏の配列、ここが集落であったことを証す鍵となり脳裏に賑やかな宿場を想像する。三十年ぶりの訪れは記憶が違っていておもしろい。中程の枝道の奥に石の鳥居があって、いきなりその先は苦土川の谷底までの急な崖で四角い鳥居を透けて見える先には那須山の裏側の山々が陽を受け光って見える。その山中に白湯山の信仰の地がある。鳥居は戊辰の折り宿中の家屋全焼とともに壊され崖下の谷底に崩落していたそうだ。平成九年に篤志家達により引き上げられ修復されたとあり継ぎ目が分かる。石柱には建立時の古い名前の刻みが数え切れない、宿の人口を超えている、つまり登拝に来た人々によるものであろう。白湯山信仰は山岳修験による出羽三山に擬した信仰で茶臼岳は月山に、湯の湧き出る白湯御宝前は湯殿山であろうか。今でも牛ケ首から黒尾谷岳の間に南月山一七七五mがある。山の中の廃村跡地は独特の異空間であり強い陽に輝く流石山、大倉三倉山の稜線が美しい。不思議な空間にもう夏の蝉が鳴きわたって我々は昼食後草むらの中で昼寝をした。
     会津藩による宿場作りと会津人によって営まれた歴史の中で思い当たることがある。古くから私達釣り人の間で言い伝えがある。御沢や湯川の悪水の沢には岩魚はなかなか住まない、しかしその上流の中ノ沢、峠沢には南会津の人々による移殖放流が行われた、という話が伝わる。昭和四十年項に求めた『秘渓の釣り』という本に「しかし上流の湯川からの悪い水の流れ込むこの付近は残念ながらほとんど魚影はみあたらない。ほどなく湯川の出会いで左が目的の大川である。湯川はその昔米三斗以上は牛の背を借りなければ運べないほど険しかったという。三斗小屋の上流まで行かないと岩魚はいない。ここは那珂川の源流でもある。」とある。それは三斗小屋宿に住み着いた人々の蛋白源確保のための日本海、太平洋の分水嶺を越えた魚の移殖放流であったとは、ロマンチックに考え過ぎであろうか。
     また、温泉好きであった田山花袋の大正七年発刊『温泉めぐり』に白河地方に訪れるため、汽車を待つ黒磯駅から雪に埋もれた那須の山々を仰ぎ見、行ってみたいと思いを寄せる三斗小屋のくだりがある。「私はいろいろと那須の湯を想像した。湯本から大丸、北温泉あたりに行く谷間の路のさまなども想像された。そこは紅葉の美しいところであるという。そこの紅葉を見ては、塩原日光あたりの紅葉は見られないという。渓もまた美しく、潺湲また潺湲、佇立去るに忍びないようなところが沢山あるという。奥の奥にある三斗小屋、板室に行く路は、ちょうど那須嶽の半腹を掠めて入って行っているので、時に由っては、その噴煙が凄じくその路に靡き下るという。またその路は会津方面に赴く間道をなしていて、維新の乱の時には、官軍の別動隊がこの山路を入って行ったと言う。そう思うと、縁がなくって未だにそこに入って行くことの出来ない身が憾まれた。私は大きな那須嶽の暮れてゆく様を眺めた。」当時にもこの秘境の集落と温泉がよく知られていたことを読みとれる。~文責:鈴木達雄~

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